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zoom RSS 琥珀の戦い

<<   作成日時 : 2012/02/17 05:48   >>

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100年前はドイツが世界一。今はポーランドが世界一。
琥珀です。

バルト海沿岸は琥珀の産地です。世界シェアは90%以上。現在はポーランド北部とカリーニングラードが一大産地。100年前、この一帯を支配していたのはドイツですね。

プロイセンやドイツがあれほど戦争できたのは、農民搾取もあるけど、やはり琥珀は外せない。重税だけでは、国庫が空になるペースです。

琥珀の採掘・輸出は紀元前まで遡ります。10世紀、ポーランドがこの地域の一部を領土にしました。現地のスラヴ人の反乱が起きて勢力を失い、11世紀初頭に再び制圧。グダニスク一帯のポメレリア地方は自国領にして、オーデル川より少し西までは臣従するポメラニア公国に。

13世紀前半、ポーランド北東部を支配していた王族マゾフシェ公コンラト1世がドイツ騎士団にプルーセンの地の改宗と平定を依頼。当時、ポーランドは君主の座をめぐって国内で争っていました。

マゾフシェ公のライバル、ヘンリク父子は鉱物資源が豊かなシロンスクから中部まで勢力を拡大していました。ドイツ人の入植は12世紀に始まっていたけど、この父子は積極的で、経済力を強めていた。

(ポーランド王族の男性はポーランド的な名前ですが、この時代だけ、コンラト、ヘンリクと「あれ?」と思う名前が続きます。ドイツ諸侯の支援を取り付けるうち、ドイツ的な名前になったのか…)

他にも貴族が担ぎ上げる王族がいたし、ドイツ諸侯も介入して、三つ巴・四つ巴でした。北のマゾフシェ公は「王位につくには、財力・軍事力が欠かせない」でした。

マゾフシェ公コンラト1世は、ハンガリーを追い出された直後のドイツ騎士団に「異教徒の侵略を受けている」と平定を依頼しましたね。プルーセン人は、なぜ攻め込んだのか。

プルーセンの地には、9世紀までに琥珀を運び出す港ができていました。一つは現在はポーランド領エルブロング。もう一つはロシア領カリーニングラードのマモノヴォ。

ドイツ騎士団を傭兵にする前、コンラト1世はプルーセンに侵攻して失敗しています。琥珀の産地だと知らずに攻め込むはずない。プルーセン人は攻め込まれて反撃に出たのではないか。

ポーランドがまとまっていれば、武力制圧できたかもしれない。でも、当時のポーランドは小国に分裂した状態です。だから、傭兵を必要としたと思う。

1226年に「プルーセン人平定」が始まり、1228年、神聖ローマ皇帝の金印勅書でプルーセンの分有が認められました。
(この勅書は偽造と疑われています。ありえると思います)

1229年 マゾフシェ公コンラト1世がポーランド君主の座につく
1232年 ライバルのヘンリク1世に追われる。ヘンリク1世が即位
1238年 ヘンリク1世が死亡。息子のヘンリク2世が即位
1241年 モンゴル侵攻でヘンリク2世が戦死。コンラト1世が復位
1259年 二度目のモンゴル侵攻
1286年 プルーセン人の一大蜂起。ドイツ騎士団が制圧

グダニスク一帯を含むポメラリア地方は、本来ポーランド君主領ですが、この頃は半独立状態でした。ドイツ諸侯との縁組も多く、ブランデンブルク辺境伯が宗主権を主張。第二次世界大戦を引き起こした係争地、ポーランド回廊と同じ地域です。

ポーランドとブランデンブルクが睨み合っていた最中の1308年、ドイツ騎士団がグダニスクを占拠して「この一帯は、うちの領土の西プロイセン!」

15世紀にポーランド・リトアニア連合がドイツ騎士団を破って奪還した後も、確執は続きました。第二次トルンの和約(1466年)でポーランド王の臣下になりましたが、翌年、大司教の選定で争いました。

1510年12月、ザクセン選帝侯の三男のドイツ騎士団総長が36歳で死亡。兄がポーランド王族と結婚していたので、23歳で総長に選ばれた人です。

翌年、20歳のアルブレヒト・フォン・ホーエンツォレルンが総長に選出されました。新総長の父親はホーエンツォレルンの傍系のアンスバッハ伯。母親はポーランド王の妹です。

ポーランド王の甥の新総長が西プロイセンとヴァルミア大司教領の返還を求め、プロイセン戦争が勃発。この戦争中、オスマントルコがハンガリーに侵攻。神聖ローマ帝国皇帝は「喧嘩やめて、ハンガリーを助けなさい」と停戦を求め、両者とも応じました。

反乱を起こして、立場が悪くなったアルブレヒト総長はルター派に改宗。ポーランド王に臣従を誓い(要するに「伯父さん、ごめんなさい」です)、初代プロイセン公になる超展開でした。

ちなみに、初代プロイセン公は17〜18歳の頃、神聖ローマ帝国皇帝がイタリアに行った時にお供して、帰りにハンガリーで過ごしています。

■戦争資金の調達は…
さて、現在のポーランド北部からドイツ北東部には、かつてポメラニア公国がありましたね。建国当初はポーランド臣下の公国です。

ポメラニア公国の公家はスラヴ人です。12世紀半ば、王位争いでポーランドが弱体化すると、ドイツ諸侯やデンマークの争奪戦が起きました。神聖ローマ帝国に所属した時期は諸説ありますが、1512年の帝国クライスで確認できます。

ポメラニア公家は、17世紀の三十年戦争中に断絶。プロイセンとスウェーデンが継承権を主張して争い、東はプロイセン領、西はスウェーデン領に分断。

プロイセンの領土は飛び地が多く、第一次ポーランド分割で北部と西部を切り取り、東プロイセン、ポーランド王領プロイセン、かつてのポメラニア公国の東側とシレジアをつなげます。

1815年、ウィーン会議でスウェーデン領だった地域がプロイセン領に。このあと、スウェーデンはほとんど戦争しなくなりますね。17〜18世紀は他国の戦争に介入しまくったのに、中立主義になる。スウェーデンの変貌は「琥珀の産地を失い、資金調達が難しくなった」と考えると納得です。

ドイツの軍資金も、琥珀と関係が深いと思います。第一次世界大戦後に大幅軍縮、多額の賠償金を支払っていたのに、スペイン内戦の頃には軍備を整えていた。旧ソ連と密約を交わしたとはいえ、相当な費用です。琥珀の密貿易を視野に入れないと、帳尻が合わないような…。

第二次世界大戦後、このバルト海沿岸の一帯は東ドイツ、ポーランド、旧ソ連と社会主義圏に。今はドイツ、ポーランド、ロシア領カリーニングラードですね。

琥珀をめぐる争いは「断続的に続く千年戦争」です。顔ぶれは、まるで大北方戦争ですね。時代が下ると、イギリスやフランスが関わるところも同じ。個人的にはカリーニングラードはちょっと…。プーチン夫人の生まれ故郷だから、あと20年は今のままでしょうか。



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