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zoom RSS バルト海が「東海」だった頃

<<   作成日時 : 2012/02/15 19:36   >>

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今のドイツとポーランドの国境はオーデル川ですね。オーデル川以東の低地ドイツ語は一つを除いて、日陰者扱いというか…。話者は残っているのですが。

東欧革命後のポーランドでは、ドイツ少数民族というドイツ系住民の政党が結成され、議会で議席を持っています。拠点はシロンスク。高地ドイツ語の話者が多かった地域です。

1880年の言語分布図です。点線が当時の国境線です。他の資料と比較すると、話者が50〜60%以上で色分けしたと思われます。ピンクが低地ドイツ語の話者が半数を超えていた地域です。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Sprachenkarte_Deutschland1880.png

バルト海が Ost-See(東海)です。この時代、ユトランド半島から東は「東海」と呼んでいたことがわかる。OST-SEE の Oの真下の河川がオーデル川。河口の潟と湖が目印です。

ベルリンがピンクです。ドイツ帝国がこういう分類をしたか疑問です。この地図は、オーストリア=ハンガリー帝国の作成かもしれない。スラヴの言語に詳しいです。緑系の色がスラヴの言語です。

OST-SEE の O の文字から南に行くと、緑のストライプが Lausitz(ラウジッツ)。現在のブランデンブルク州南部からザクセン州にかけて。スラヴ系少数民族ソルブ人が住んでいます。

地図の東側は、
・Weiss-Russen=白ロシア語(ベラルーシ語)
・Ruthenian=ルテニア語(ウクライナ語)

当時、ベラルーシはロシア帝国領、ウクライナ西部はオーストリア領です。ロシア帝国はベラルーシ語やウクライナ語をロシア語の方言とみなしていました。この地図は違う言語と捉えている。

「ウクライナ」という概念は、この10年ほど後です。口頭で使われていた可能性は否定できませんが、当時のオーストリアではラテン語読みの「ルテニア」を使っていました。

そして、北緯50度の線の少し下に地図に Lemberg(レンベルグ)。現在ウクライナのリヴィウです。ドイツ語ではレンベルグ、ウクライナ語ではリヴィウ。第二次世界大戦まで、多民族・多言語の町でした。ここも当時はオーストリア領です。

ウクライナ語の書物の出版は、ロシア領では禁止されていました。この地図のレンベルク、現在のリヴィウが出版の拠点でした。

北緯52度の線の少し上にブレスト。ドイツ系住民、ドイツ語やイディッシュ語を話すユダヤ人が多かったのに、ドイツ語を示す赤やピンクがない。当時はロシア領です。充分な調査ができなかった、とも考えられる。

地図の南側はハンガリーにドイツ語、ルーマニアにドイツ語とハンガリー語。さらに南はスロヴェニア語とクロアチア語。

北のみかん色がリトアニア語。Memel(メーメル。あるいはメーメルブルク)は現在リトアニアのクライペダ。ドイツの北東部には、リトアニア語の話者が半数以上いた地域があったという地図です。

こちらはドイツ帝国で作成した言語分布図だと思います。1897年です。
http://mitglied.multimania.de/Pomerania2/hist_maps/survey/dialect2a.jpg

薄いグレーが当時の国境線です。赤い線は南から上部ドイツ語、中部ドイツ語、低地ドイツ語です。高地ドイツ語は、上部ドイツ語と中部ドイツ語です。

北東部、プロイセン方言が二つあることがわかります。

レモン色:プロイセン方言(低地ドイツ語。低プロイセン方言とも言う)
薄茶色:高プロイセン方言(高地ドイツ語)

高プロイセン方言は、シレジアからの移住者や18世紀以降の入植者が話していたとされています。かつてのヴァルミア大司教領を中心に広がっているのが興味深いです。

低地プロイセン方言、高地プロイセン方言という分類もありますが、この地図では高プロイセン方言だけ、hoch(高い)がついています。だから、表記に迷います。この地図ではプロイセン方言の地域のほうが広く、都市部が多い。話者の人口は差があったと思われます。

ドイツ語以外は色分けされていません。おそらく、ドイツ語の話者が50〜60%以上は色分けしている。先ほどの地図は1880年、こちらは1894年。両方とも、行政のためと考えるのが筋でしょう。

少数民族の言葉は、ラウジッツのソルブ語以外はほとんど分類されていない。ラウジッツには炭坑があります。19世紀はドイツ語ができるソルブ人が少なかったから、言語が重視されたと思います。第二次大戦中、知識階級が強制収容所に送られ、少数派に。

カシューブ語(ポーランド北部)はドイツ帝国領。ポーランド語に近いため、この頃は方言の位置付け。ルシン人が住む地域はオーストリア=ハンガリー帝国領です。

ロマ人の定住政策は18世紀から始まり、オーストリアがある程度は成功、プロイセンは失敗。現在、中東欧でロマ人の集落が多いのはルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア。

1894年の地図で目を引くのが北東部の川の名前です。
1880年の地図のメーメル川(現在のネマン川)が Niemen
『ドイツの歌』の一番の「メーメル川からマース川まで」のメーメル川です。

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