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zoom RSS 日本開国とプロイセン

<<   作成日時 : 2011/08/13 05:38   >>

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ナポレオン戦争、六月動乱、1848年革命までやったから、もう少し歴史ネタで行きます。

今回は本編、黒船来航後の日本です。今年2月、戊辰戦争中に会津藩と庄内藩がプロイセンとの提携を模索したことが明らかになりましたね。最初の文書は1868年7月31日付、在日プロイセン代理公使からビスマルク宛です。蝦夷地の所領地と日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた、と。

割譲を持ちかけた会津藩と庄内藩は、それぞれ蝦夷地に所領を持っていました。会津藩は根室と紋別(太平洋側)、庄内藩は留萌と天塩(日本海側)。江戸時代後期、幕府は北方警備のため、東北の有力藩に蝦夷地を「所領」として分け与えます。所領とは名ばかりで、警備のための派兵・駐屯です。

「日本海側の領地」は奥羽越列藩同盟も絡んでいると考えるのが自然でしょう。蝦夷地に所領がなかったのは米沢藩、長岡藩、村上藩、新発田藩など。これらの藩の領地の島ではないでしょうか。たとえば、粟島は米沢藩の領地でした。

松前藩、会津藩、庄内藩以外で蝦夷地に所領を持っていたのは弘前藩、盛岡藩、秋田藩、仙台藩です。すべて奥羽越列同盟に参加しました。



プロイセン側が新暦なので、新暦で流れを追っていきます。1867年11月、大政奉還。1868年1月、王政復古の大号令。同年同月、戊辰戦争が勃発。4月、江戸城無血開城。5月、上野戦争。

薩長と対立した会津と庄内は「朝敵」のままです。東北や北越の藩は、赦免を願い出ようと同盟を組みます。これが奥羽越列藩同盟。加盟した藩は31藩です。

奥羽越列藩同盟は「北部政権」の構想を立て、21歳の公現入道親王を擁立。公現入道親王は名前通り、僧侶でした。父親の伏見宮邦家親王が子だくさんで、王子が17人いたのです。徳川慶喜の助命と東征の中止を願い出て断られ、上野戦争に巻き込まれ、彰義隊と共に東北に逃れました。

同年9月、仙台藩が降伏。公現入道親王は蟄居を命じられ、「二人の帝」の混乱は終息します。プロイセン代理公使の手紙は7月31日付なので、公現入道親王が盟主だった時期です。

奥羽越列藩同盟で同盟の誓約書を交わしたのは会津藩と庄内藩だけ。代表としてプロイセンに打診したかもしれない。プロイセンが日本海の島や北海道の沿岸部に軍事拠点を置くと、ロシアを東と西から挟む形になります。

約3ヶ月後、宰相ビスマルクが却下して、この話は流れます。ドイツ統一を優先したと思います。4〜5年後なら、まったく違う展開になったかもしれません。

1870年10月、公現入道親王は還俗を命じられ、伏見宮家に戻りました。同年12月、プロイセンに留学します。留学中、ドイツ貴族の女性と婚約、明治政府が反対して、帰国させられます。帰国後はまた謹慎して、その次は陸軍です。数年で少将に昇進しました。

戊辰戦争中、公現入道親王は「東武天皇」として即位したという説があります。会津藩と庄内藩の打診は、数十年前までなら日独関係にヒビが入る内容です。冷戦時代の東西ドイツはナーバスだったので、公表しづらかったと思います。

さて、蝦夷地の「所領」についてです。一昨年、北東北に行った時に少し勉強しました。盛岡藩の領主は南部氏で、「南部藩」の呼称のほうが歴史が長いため、屯所は「南部陣屋」と呼びます。函館(諸藩共同)、室蘭、長万部、幌別などに屯所がありました。択捉と国後は、後に仙台藩が担当します。

だいたい船で行き来します。着物での越冬は非常に寒く、凍傷に悩まされた。食料は藩からの供給か現地調達。武士がみんな魚をバンバン釣れるわけがなく、食料は少なかった。野菜不足で壊血病になる人が多かった。

生きて帰れなかった人もいて、函館だけでも12の墓石が残っているそうです。明治政府が引き渡しを求めた際、藩士たちは拒み、陣屋に火をつけ、焼き払いました。

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